plaphic profile
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prologue
世界の成分はほとんど嘘でできている。なぜなら、神は全能であるということが、すでに嘘であるからだ。神と冗談は同じ地平にいる。こうして人は今日も嘘をつき、嘘を嘘で塗り固め、嘘を雪だるま式に膨らませ、嘘の小雪を降らせる。そしてまた世界は、嘘にすっかり覆われてしまうのだ。でもそれは雨ではなく雪であるから、虹がかかることは永遠にない。このようにしていつしか世界は、積極的に嘘をついていく方向にシフトチェンジ。本当のことを言わないことの方が美徳とされ、リアルな意味で、世界は嘘で覆われていく。たとえ真実を言っても嘘と認識される。つまり「世界は退屈だ」という発言と「世界は素晴らしい」という発言は同じ意味を持ってしまったということだ。これはなかなかに便利ではある。しかし。
本当にこれでよかったのか?
人がまだ猿であった時(まだ道具の存在がなかった時だ)猿人は熾烈な生存競争に明け暮れ、生える草の実や動物の肉を食べ、水飲み場の池を他の猿と分け合いながら生きていた。ある朝、彼らの前に忽然と巨大なプラスティックが現れる。はじめ猿人はそれを恐れたが、その中の一匹が恐る恐るそのプラスティックに触れると、まるで何かの啓示を受けたかのように、動物の骨を道具として使うことを知った。そして現在まで、世界を達観していたのは巨大なプラスティックだった。古代から現代まで、あらゆるものの象徴として存在し、色を持ち、形を持ち、変形も比較的容易で、丈夫に作ることも柔軟に作ることもできたので、それは文明の発展に大いに役立った。つまり、プラスティックが世界を変え、世界をもたらしたのだ。プラスティックなしでは今の世界はあり得ない。もはや文明そのものであると言っていい。プラスティックこそが創造の神だ。時にカラフルで、固すぎることもなくかといって全く頼りにならないということもない(つまり我々に素晴らしくふさわしいということだ)そのプラスティックこそ、もはや神の領域を超え、それにこそ救いの道がある。いざ、全ての石油をプラスティックに換え、世界の平和を創造するのだ。 そしてプラスティックを中心とする宇宙に存在するいくつもの物語を集めたようなにぎやかさと静けさで、世界は包まれた。しかし。
プラスティックは宇宙からの偉大な贈り物であったが、地球ではそれはあまりに、超越していた。人は、その処理の仕方を、うまく付き合う方法を、結局最後まで心得られなかった。そして破滅し、全てリセット。ゼロだ。宇宙は悲しげに、それをも見守った。その後プラスティックは、人の英知を超越したものとして唯一、宇宙の果てを知るものとして祭り上げられる予定だったが、叶わず、柔らかな春の日の午後の、狂人の夢に終わってしまった。あるいは宇宙が始まる前の話だったかもしれない。
はじめに、光があった。何をしていたというわけでもない、ただ、あった。ぼんやりとした光だ。ここからは小さく見えるが、近寄ってみるとその大きさに包み込まれてしまって何が何だかわからなくなってしまうような光だ。例えば、真上にあるあの月の光だ。遠くで燃える恒星の光だ。トンネルの出口に見える光だ。兎が燃えた、炎の光だ。しかし、光には何も照らすものがなかったので、光の存在には意味がなかった。投影せず、反射せず、吸収せず、発散せず。それが、世界の定義である。世界には始め、意味はなかった。ゆえに、光は持て余していた。光が光であることを、持て余していた。光はそのうち、あまりにやるせなくなってしまって、やるせなさのあまりいつしかやるせなさを燃料にやるせなさをてらてらと照らしていた。光はそのやるせなさを少しでも見えなくするため、他に様々なものを作って気分を紛れさせようと考えた。そしていろいろなものを生み出した。それがつまり、世界の始まりである。
よし、よしよし。今日も全てが終わった。特になんてことのない一日だった。全くなんてことのない、無味で、無意味な一日。よし。のっぺりとゆらゆらと、あるのかないのかよくわからない毎日が過ぎていく。無力。時間の前では何もかもが無力だ。時間はそして優雅だ。我々は「生きる」ということでしかそれの存在を証明することはできない。そうやって黙って流れていくのを見送るしかない。意味があろうとなかろうと。しかし、時間が経つということは何かが起こるということだとすれば、こうして「あえて何も起こらないことを希望する」ということが、時間という絶対的なものに対するささやかな抵抗なのではないか。だが基本的に、絶対的なものには抵抗しない方がいい。よし。
そして今日も遅刻する。
今日も(そして明日も)どこかで(おそらく至る所で)陰惨な事件はのべつまくなしに起こっていて(あるいは今まさに起ころうとしているところで)、そのことに対して我々は、実に残念で悲しい事実だが何もできないでいる。中には神にもすがろうという人もいる。全てを投げ出そうという人もいる。せめて少しでも何かできないかという人もいる。何かをしようとして、でもどうしていいかわからない人もいる。何かをしようとして、どうしていいかわからなくて、途方に暮れるだけの人もいる。何かをしようとして、どうしていいかわからなくて、途方に暮れているだけではどうにもならないと思いとにかく行動する人もいる。何かをしようとして、どうしていいかわからなくて、途方に暮れているだけではどうにもならないと思いとにかく行動したはいいが、逆に巻き込まれてしまう人もいる。
単純に、どうにもならないでいる。
サムシングイズカミンナウ。いつだって、今だって、ずっと何かが来るような予感がして、訳も分からずずっと待っている。誰に言われたわけでもないのに、そうと決まっているわけでもないのに。すぐそばまで来ているのか、まだ遥か遠い先にあるのかも、わからないまま。もはやそれは習慣になってしまって、待っている、という行為を忘れるほどに、待っている。あるいはもう待ちくたびれてしまって、すっかり諦めてしまっているのかもしれない。実はずっと待っていたものはこの「諦め」で、それを認めたくないあまりに、まだ何かを待ち続けているフリをしているのかもしれない。機はとっくに熟している。そろそろ全てを受け入れてもいい頃だろう。
我々ハ、モウ何モ諦メルコトガデキナイトイウコトヲ諦メルベキダ。
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光が生み出したものは確かに世界であるが、それは始め、退屈の塊だった。世界は黒く濁っていた。光は、ぼんやり遠くを眺めた。光はそこに、闇を確認した。闇は、光の方を目指して延び、その境界線はいつの間にかモヤモヤと曖昧になって、光と繋がっていた。光は知った。そうして全ては繋がっている。何かを照らすという地平は反対に回って何かを隠すという地平に繋がり、昼の時間は夜の時間と繋がり、現在は過去と繋がり、戦争が起きている地面は平和に生活している地面と繋がり、愛情は憎悪と繋がり、喜劇は悲劇と繋がり、生み出した思考も、それとは反対のものと繋がっている。ゆえに、意味は相殺で帳消しで、ないのだ。意味を探る事自体が無意味。こうして、光は全てを諦めた。無力。リセット。神も仏も、絶対的なものはいない。いなくて、一旦まっさらで、光はあった。しかし次が起こる全く一瞬間前、光は悟った。光は、衝動的に思考を生み出した。「どうすれば世界は退屈でなくなるのか」と考えたら、おおよそそのような思考が生まれた。見よ、それは極めて良かった。光は退屈ではなくなった。世界は安定した。そうして物語は次へ進んだ。その思考は意思になり、光はこれに、目に見えるもの全て、という意味を与えた。そしてこれは、さらに強い意志となった。光はこれに名前をつけた。この意思の希望する名前を付けようと思い、どのような名前がいいか尋ねた。この意思はモゴモゴと何か言った。それは「グラフィック」と言ったようにも「プラフィック」と言ったようにも「プラスティック」と言ったようにも聞こえた。が、光はグラフィックと聞き取り、そしてその名前はそのようになった。ブルッと身震いがし、何か予感がした。いい予感だ。
そして世界の風は、退屈の上を吹き抜け、楽しめる世界に触れる。
どう考えてもこれでいいわけがない。だから伝えないと。どうも何か物足りないような、もうここまで出てきているような、一歩手前の感覚。そんな感覚に首をゆるく絞められて、なかなか伝えられないでいる。言葉の虚構性を、どこまで信じる? それはいつまでたっても分かることはないのかもしれないし、例えば、息を引き取る3秒前に気付くのかもしれない。1秒前? どっちにしたって結局、言葉にはならないってことだ。言葉は嘘をつくためにある。だっていつだって本当のことを言えたためしがないのだ。伝えられるものと言えば、どうでもいいような、昨日のテレビの話だとか、誰と誰が別れただの、健康のためにはどんな食物がいいだとか、就職先がないとか、髪を短く切りすぎただとか、そんな話ばかりで、本当に伝えたいことはいつだって薮の中。でも確かなのは、本当に言いたいことは、確実にある、ということ。あるいはそれは言わないままでおいた方がいいという、何かの啓示なのかもしれない。それを言えてしまったらきっと、何かが終わる。そう予め、それはもう宇宙が始まる前から決められている掟のようなもので、言葉を得ると同時に捧げた生け贄だ。ずっとずっとこれから、そういう歯がゆさというかわだかまりというかもどかしさというかそういうものを、まとわりつかせながらやっていかなかればならない。それは時に、とても辛いことだ。だが、本当に言いたいことは、こともあろうに言葉に恋をしてしまった。それは科学者が、未知のものに吸い寄せられるがごとき衝動でもって恋をした。つまり、言葉を全面的に肯定したのだ。本当に言いたいことは、いつの日か言葉で伝えられることを期待している。言葉の言葉で発語されることを希望している。そして、本当に言いたいことは、言えないままでいる。しかし言葉はまだ絶望されたわけではないという事実が、かろうじて世界を支えている。
何もいいことはない、本当に言いたい本当のことを、表現する手立てを見出さなくては。とにかく、やってみるしかない。 そうして始まる狂人の夢のような世界。
諦めることは、もうない。
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